この2ヶ月間、ついていけなくて苦しい思いをしてきた文学の授業(ついていけない理由は文学の背景知識のなさ+英語力)。もうすぐこの授業も完結しますが、最後にテストとエッセイの提出(3500〜4000 words)があります。
エッセイを書き始める前にテーマを先生に報告しなければいけなかったので、わからないなりになんとかテーマを考えて先生にメールしました。すると、「こういう視点で書いたらいいんじゃない?」という丁寧なアドバイスが返ってきました。そしてメールの最後には”Feel free to come and see me if you’d like to discuss this further.” のひとこと。
その1文を読んで、なぜか、「先生のとこに行って、授業についていけてないって正直に話してみよう」と思い立ちました。「一対一で先生と話す機会なんて最初で最後やし」と。
そうしたからといって特に何かしてもらえるとは思わないけど、そういう学生もいるということを知ってもらいたかったし、先生がどう反応するかを見てみたかったというのもあります。
「エッセイのことを相談したいから」という名目でいざ先生の研究室へ。最初の10分ぐらいはずっと雑談でした。先生が日本で富士山に登った話とか日本のファッションが好きだとかいう話をして場を和ませてくれました。
そろそろ雑談も終わりかなという雰囲気になり、エッセイ(名目上の本題)の話に入るのかと思ったら、先生からの質問が「この授業どう?楽しんでる?」でした。
核心的な質問に動揺しつつ、雑談ですっかり和やかモードになっていた私は、はっきりと、
“To be honest, I don’t understand what you say in the class.“
・・・はっきり言いすぎて自分でも笑ってしまったし先生も笑ってました。
で、笑いつつ、「おお!」と思ったことは、本題に入る前の段階で「授業どう?」という問いかけをしてくれたことなんです。
私が先生の立場だったら、まず本題を終わらせなあかん!という意識で、雑談もそこそこに本題に入っていたと思います。なんというか、その部分が自分の「仕事」だからという意識で。それで、本題が終わった後に「他に困ってることない?」みたいな感じで聞くと思います。
でも考えてみたら、その順序だと、「困ってること」があっても言いにくいですよね。さんざんエッセイの具体的なアドバイスなんかをもらった後に「実は授業わかりません」とか言えないし・・・。
そもそも、今回の自分の行動を通して思ったんですけど、「生徒」がわざわざ「先生」のところに来るって、何か言いたいことがある時なんです。今までの教員生活を思い返してみてもそうでした。だから、そういう時は話しやすい雰囲気を作ること、話すきっかけになるターンを与えること、がとても大切なんだなと思いました。
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はっきりと「わからない」と表明されて、先生は戸惑いつつも「もっと早く言ってくれたらよかったのに」「でも話してくれてよかった。授業をして前から見てるだけでは学生がどう思ってるのかわからないから」「理解できない部分はいつでも質問に来て」と言ってくれました。
ここでもうひとつ思ったことがあって、それは、「先生」も「生徒」のことを知りたいと思っているということです。個人の気持ちやバックグラウンドを知ることによって、授業や学校生活がうまくいくということがたくさんあります。
この話をした次の日にまた授業があって、やっぱりいつも通りほとんど理解できませんでした。それで、「いつでも質問に来て」と言われた言葉通り、授業が終わってから先生の部屋を訪ねることに。結果的にその日の授業を個人的に再現してもらうような形になり・・・理解できました。それどころか、先生が言っていることを初めて自分の頭で理解した結果、今までの授業内容がやっと一本の線につながって、全体として先生が伝えようとしていることが見えてきたのです。
先生ありがとう。
思い切って「わからない」と言ってみたことによっていろいろなことがわかった2日間でした。
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